魔法に恋して
チャイムが鳴った。
一番目の音は、まだ誰も来ない昼下がりの音。
二番目で、窓辺のカーテンがふわりと揺れた。
三番目で、テーブルの上の冷めかけた紅茶から、細い湯気が立ち上がった。
四番目。
街のざわめきが、ほんの少し遠くなった。
五番目。
僕は立ち上がった。
六番目。
なぜだろう。
胸の奥で、ずっと昔から知っていた言葉が、ひとつだけ浮かんだ。
そして――七番目の音。
ドアが開いた。
彼女が立っていた。
白いブラウスに、淡い色のスカート。
まるで昼の光が、人の姿を借りてやって来たみたいだった。
「遅かったね」
僕が言うと、彼女は笑った。
「あなたが呼んだんでしょう?」
そうだった。
僕はずっと、彼女を呼んでいたのだ。
声には出さず、手紙にも書かず、ただ心の中で。
すると彼女は、少し首を傾げた。
「それで……呪文は?」
僕は笑った。
窓を開ける。
青い空が、部屋の中へ流れ込んできた。
そして僕は、誰にも教えたことのない呪文を唱えた。
たった一言。
それだけだった。
次の瞬間――
空に、ひとつの赤い風船が浮かんだ。
続いて黄色。
青。
緑。
白。
紫。
幾百もの風船が、どこからともなく現れて、次々に空へ昇っていく。
街の人々が足を止めた。
子供たちは空を指差し、大人たちは笑いながら見上げている。
彼女も、窓辺に立って空を見ていた。
「きれい……」
その横顔を見て、僕は思った。
魔法というものは、空を飛ぶことでも、風船を出すことでもない。
誰かが現れた瞬間に、
昨日までと同じ世界が、
突然、別の世界に見えてしまうことなのかもしれない。
彼女が僕を見る。
「ねえ」
「なに?」
「もう一度、魔法をかけて」
僕は少し考えてから答えた。
「それは、できないよ」
「どうして?」
「今度は君が魔法だから」
彼女は笑った。
空では、幾百の風船が午後の光を受けながら、ゆっくりと遠ざかっていく。
僕たちは並んで、それを見ていた。
素晴らしい昼下がりだった。
そして僕は、その日初めて知った。
人は、ときどき、
魔法に恋をするのではなく、
魔法そのものになった人に、
恋をするのだということを。
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