もうすぐ帰る
夕焼け空に肩車された、そんな日。
僕はずいぶん長いこと、空の高いところから街を眺めていた気がする。屋根の向こうには赤い雲が流れ、電線にはカラスが三羽、帰り支度をするように並んでいた。商店街からは夕飯の匂いが漂い、遠くで踏切の警報機が鳴っている。
子供のころ、父の肩に乗せてもらったことがある。
あのときの僕は、世界がこんなにも広いものだとは知らなかった。人々の頭の向こうに、見たことのない景色が広がっていた。父の髪をつかみながら、もっと遠くへ行こうとせがんだものだった。
けれど、いつからだろう。
僕は自分の足で歩くようになり、やがて誰かを肩車することもなくなった。
帰ろう、ホームへ。
そう思って駅へ向かうのだが、それがどこなのか、じつはよくわからない。
切符を買う必要もないし、改札を通る必要もないのかもしれない。ホームというのは、もしかしたら場所の名前ではなく、帰りたいと願う心のことなのだろう。
駅前のベンチに腰を下ろしている老人がいた。隣には買い物袋を抱えた女の人がいて、その向こうでは学生たちが笑っていた。みんなそれぞれの一日を抱えて、どこかへ帰ろうとしている。
僕は、だれともなく声をかけた。
「もうすぐ帰るよ」
返事はなかった。
それでも、風が吹いて、ホームの端に落ちていた小さな紙片が舞い上がった。まるで誰かが、うん、わかっているよ、と答えてくれたみたいだった。
夕焼けがゆっくりと薄紫色に変わっていく。
そういえば、あのころの父も、僕を肩車したまま、こんな空を見ていたのだろうか。あの人はどこへ帰りたかったのだろう。今となっては尋ねることもできない。
けれど、不思議なことに、父の肩の温もりだけは、まだ僕の身体のどこかに残っている。
立ち上がって、もう一度、ホームの向こうを眺めた。
誰かが待っているような気がした。
帰る場所がわからなくても、帰ろうとする気持ちさえあれば、きっと道は見つかる。そう思ったとき、駅の時計の下に、小さな男の子が立っているのが見えた。
男の子は父親の手を握り、夕焼けを指さしていた。
「ねえ、あの空、どうして赤いの?」
父親は笑って答えた。
「みんなが帰ってくるのを、待っているからだよ」
僕は思わず微笑んだ。
そうか。
夕焼け空は、帰る人たちを迎えるために、あんなにも美しいのか。
僕は歩き出した。
もうすぐ帰る。
今度は、ちゃんと帰れる気がした。
そして、夕焼けの最後のひとひらが街の向こうへ沈むころ、僕はもう一度だけ、誰もいない空に向かって声をかけた。
「ただいま」
すると、どこからか、懐かしい声が聞こえたような気がした。
「おかえり」
その声に肩を押されるようにして、僕はゆっくりと歩いていった。
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