浅草から下落合まで歩くと、どの位かかるんだろう。何だかアカデミックを気取って貧乏だった、ああなんて幸せだった日々。
何駅も歩いては、電車代を浮かし、少し高めの喫茶店に入る。それが、少し自分の矜持を満足させていた。
妖夢の中を
コーヒーと芝居。それがすべてだった。
そう言ってしまえば、いかにも青春の一幕らしい。けれど、あの頃の僕には、ほかに何かを欲しがる余裕もなかったのだと思う。財布の中には、いつも小銭がいくらか。ポケットには読みかけの文庫本。そして、頭の中には、まだ見ぬ舞台の幕が上がり続けていた。
浅草から下落合まで歩くと、どのくらいかかるんだろう。
ある日、そんなことを考えた。
電車に乗れば簡単な距離も、歩けばひとつの物語になる。浅草の雑踏を抜け、上野のあたりで人波に揉まれ、神田を過ぎる頃には、街の表情も少しずつ変わっていく。学生たちの声、古本屋の軒先、夕暮れのガード下。東京という大きな舞台の、書き割りの裏側を覗いているような気がした。
アカデミックを気取っていたのかもしれない。
貧乏だった。しかし、ああ、なんて幸せだった日々だろう。
何駅も歩いて電車賃を浮かし、その金で少し高めの喫茶店に入る。琥珀色のコーヒーが白いカップに注がれ、テーブルには芝居のチラシと、読みかけの戯曲。隣の席では、背広姿の男が新聞を広げている。
僕はわざとゆっくりコーヒーを飲んだ。
時間を買ったつもりだった。
誰にも急かされず、誰のものでもない時間。たとえ一杯のコーヒーの値段が、その日の食費を脅かすほどのものであっても、僕には譲れないものがあったのだ。
それが、ささやかな矜持というものだったのだろう。
芝居の幕が上がると、僕はいつも別の人間になれた。王子にもなれたし、道化にもなれた。人を裏切り、愛し、絶望し、最後には誰かのために死ぬことさえできた。舞台の上では、貧乏も孤独も、ほんの少し美しいものに変わる。
そして幕が下りる。
劇場を出れば、いつもの東京が待っていた。
けれど、僕は知っていた。あの薄暗い客席で見たものが、明日からの僕をほんの少しだけ変えてくれることを。
その夜も、僕は神田川沿いを歩いていた。
夜風が水面を撫で、街灯の光が細かく砕けている。どこかの家からピアノの音が流れてきた。曲名はわからなかったが、なぜか懐かしかった。
ふと、川面に目をやった。
月光を浴び、水の中を、薄いベール越しに、艶やかな裸身が輝いていた。
息を呑んだ。
女だった。
いや、本当に女だったのだろうか。
長い髪が水の流れに揺れ、白い肩が月の光を受けている。水底から浮かび上がってきたようでもあり、古い舞台の緞帳の向こうから現れたようでもあった。彼女は僕を見ていた。微笑んでいたようにも思う。
僕は目を逸らせなかった。
川面が揺れた。
その瞬間、彼女の姿は幾千もの銀色の破片になり、夜の水に溶けていった。
残されたのは、月と、流れる水と、立ち尽くす僕だけだった。
夢だろうか。
それとも、芝居を見すぎた男の、少しばかり質の悪い幻覚だろうか。
僕はポケットから煙草を取り出そうとして、やめた。そんなことをすれば、この不思議な夜が、たちまち日常に引き戻されてしまう気がしたのだ。
川の向こうに、古い東京が見えた。
まだ路地に駄菓子屋があり、映画館の看板が夜空を彩り、喫茶店の奥では誰かが人生について語っていた時代。僕はその街を歩いていた。浅草から下落合まで、電車賃を惜しんで歩いたあの頃の僕が、少し先を歩いている。
若い僕は、角を曲がる前に振り返った。
何か言いたそうだった。
けれど、言葉にはならなかった。
僕もまた、何も言わずに手を振った。
あの頃、僕たちは何を求めていたのだろう。
名声か、恋か、それとも自分が何者かであるという証明だったのか。
いま思えば、どれも違っていたのかもしれない。
ただ、世界にはまだ知らない美しいものが隠されていると信じていたかったのだ。喫茶店の片隅にも、芝居の幕間にも、夜の川面にも。そして、いつもの道を歩いている自分の足元にも。
妖しい夢は、現実の向こう側にあるのではない。
現実を、ほんの少し違う角度から眺めたとき、そこにふいに姿を現すのだ。
僕は再び歩き始めた。
水面には、もう誰の姿もなかった。
ただ、月が揺れていた。
あの頃の僕が愛した東京も、いまの僕が歩く東京も、同じ月の下にある。
コーヒーと芝居。それがすべてだった。
いや、違う。
そこには、夢があった。
そして夢を見ているあいだ、僕たちは、いつだって幸福だったのだ。
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