海辺の小さなアトリエ
海辺の小さなアトリエには、いつも潮の匂いが満ちていた。
窓を開ければ、波の音が聞こえる。古びた木の床には午後の光が斜めに差し込み、壁に貼られた芝居のポスターが、風に揺れている。
僕は仲間たちと、舞台のセリフ合わせをしていた。
「それじゃあ、もう一度、最初から」
誰かがそう言うと、みんなは少し笑って、また台本に目を落とした。上手く演じようなんて、誰も思っていなかったのかもしれない。ただ、自分たちの言葉で何かを伝えたかった。まだ名前のついていない未来に向かって、声を投げかけてみたかったのだ。
君はトウシューズを履いた足を窓枠に預け、ずっと向こうの水平線を眺めていた。
踊りの稽古を終えたばかりの君は、黙っていると、まるで海の向こうからやって来た人のように見えた。僕がセリフを間違えると、君は振り返って笑った。その笑顔を見るたび、僕は自分の役柄を忘れそうになった。
「ねえ、あの船、どこへ行くんだろう」
君が指さした先に、小さな帆船があった。
白い帆を張り、ゆっくりと沖へ進んでいる。やがてマストの先が水平線に溶けて、船は見えなくなった。
「どこか遠いところさ」
僕は答えた。
「でも、帰ってくるよ」
「どうして?」
「日が昇るからさ」
君は不思議そうに僕を見つめた。それから、何かを思いついたように、窓辺で小さく踊った。つま先が床を離れ、身体が光の中をひと回りする。ほんの一瞬、君は海の上を渡る風そのものになった。
あの時代、僕らはささやかな夢を持っていた。
芝居を続けること。踊りをやめないこと。いつか自分たちの手で、小さくてもいいから、誰かの心に残るものを作ること。
世の中を変えようなどと大きなことを口にする仲間もいた。けれど、夜更けまで議論した末に、僕らがたどり着くのは、たいてい同じ場所だった。
人はなぜ生きるのか。 なぜ誰かを愛するのか。 失われてしまうと知りながら、なぜ夢を見るのか。
答えは出なかった。
それでも翌日になれば、僕らはまたアトリエに集まった。誰かがコーヒーを淹れ、誰かが台本を探し、君は窓辺でトウシューズの紐を結んだ。
いつだって繰り返す。 いつだって戻ってくる。
それが、僕らの哲学だったのだろう。
時は流れた。
仲間たちはそれぞれの道を歩き、アトリエの扉も、いつしか閉ざされた。舞台の幕が下りるように、ひとつの時代が終わったのだと思っていた。
けれど、ある朝、僕は夢を見た。
海辺の小さなアトリエ。窓から差し込む午後の光。台本を手にした仲間たち。そして、窓枠に足を預け、水平線を見つめる君。
あの日と同じように、沖には船が浮かんでいた。
船はゆっくりと遠ざかり、マストの先が水平線の向こうに消えていく。
僕は君の隣に立った。
「ほら、また行ってしまった」
君はそう言って、少し寂しそうに笑った。
「でも、帰ってくるよ」
僕は、あの日と同じ答えを口にした。
君は今度は笑わなかった。ただ、僕の手を取った。
水平線の向こうは、何も見えない場所ではなかったのだ。見えなくなったものが、いつか別の姿で戻ってくる。そのことを、僕らはずっと信じていたのかもしれない。
朝が来る。
海の色が変わり、遠くの波頭が金色に輝き始める。
そして、水平線の上に、小さなマストが現れた。
船が帰ってきたのだ。
僕は目を凝らした。船の甲板には、旗が一枚、風を受けてはためいていた。
愛の旗。
かつて僕らが、舞台の袖で、稽古場の片隅で、そして別れ際の駅のホームで、心の中に掲げていた旗だった。
それは誰かのための旗であり、まだ出会っていない人々のための旗でもあった。
君が僕の手を握る。
「見える?」
「ああ、見えるよ」
僕らは、もう若くはなかった。
けれど、あの時代の夢は、決して過ぎ去った時間の中だけにあるのではなかった。海は今日も満ち引きを繰り返し、朝は必ずやって来る。人は去り、人は戻り、物語は新しい役者を迎えて、また始まる。
君はトウシューズの足を窓枠から下ろした。
「さあ、そろそろ始めましょうか」
その声に、僕は振り返った。
アトリエの奥では、仲間たちが台本を開いて待っていた。
僕らの芝居は、まだ終わっていなかったのだ。
海の向こうで、愛の旗がはためいている。
僕はもう一度、最初のセリフを口にした。
今度こそ、君に届くように。
そして、水平線の彼方にいる誰かにも届くように。
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