とあるエピソード
――魔法の町、満たされる世界――
「行こうよ、あいつらがやってくるまえに。」
少年は少女の手を引いて、小さな森の小径を駆け出した。
身も心もうきたつような、天気の良い日だった。木々のあいだから陽光がこぼれ、草むらでは名も知らない虫たちが、まるで小さなオーケストラのように羽音を響かせていた。森の奥には、いつのまにか大きなテントが現れていた。赤と金色の縞模様。てっぺんには銀色の風見鶏がくるくる回り、入口には「Magic
town」と書かれた看板が揺れている。
そこは、年に一度だけ、小さな森に姿を現す不思議な市場だった。
テントの中には、見たこともない品物を売る店が立ち並んでいた。昨日の夢を瓶詰めにした店、なくした手紙を探してくれる店、まだ生まれていない物語の挿絵を描く店。どの店先からも、威勢のいい掛け声が飛び交っていた。
「さあ、忘れ物はこちら! 遠い昔の笑い声、いまなら二割引き!」
「失恋の痛みはいかがです? 甘い思い出に仕立て直しますよ!」
少年は笑った。こんな市場があるのなら、世の中もそう悪いものではない。
ところが、広場の片隅まで来たとき、ふたりは足を止めた。
ピエロの姿をした女の子が歌っていたのだ。
白い顔に、赤い丸い鼻。大きすぎる靴。帽子には小さな鈴がついていた。けれど、その歌声は、道化師の衣装には似合わないほど寂しかった。
「クリスティーナが、砕けてしまった……」
少女はそう歌い、広場に集まった人々は、誰ひとり笑おうとはしなかった。
「クリスティーナって、誰?」
少年が尋ねると、傍らの老婆が、古い鍵束を鳴らしながら答えた。
「ガラスの娘さ。Magic townで買い物をしていた、透明な女の子。嘘のつけない、すんだ声でお話をする、そりゃあ可愛い娘だったよ」
クリスティーナは、いつも市場の真ん中にある噴水のそばにいた。何を尋ねても、知っていることを正直に答えた。嬉しいときには虹色に輝き、悲しいときには頬のあたりに薄い水滴を浮かべた。ガラス細工のように美しいけれど、決して人を傷つけるようなことは言わなかった。
そんな彼女が、ある夕暮れ、粉々に砕けてしまったのだという。
「どうして?」
少女が尋ねた。
老婆は市場の向こうを指さした。そこには、黄昏色の光に包まれた一本の通りがあった。魔法通り。古い時計屋、銀のボタンを売る店、誰かの青春を額縁に入れて並べる画廊。夕暮れが深まるにつれ、店々のランプに灯がともり、忘れられた時間が、そっと通りを流れはじめていた。
「クリスティーナはね、ある人に、本当のことを言ったのさ」
「本当のこと?」
「そう。人は誰でも、自分の心の中に、ひとつくらいは見られたくないものを持っている。クリスティーナには、それが見えてしまったんだよ」
老婆はそこで言葉を切った。
「けれどね、あの子は何も悪くなかったんだ」
ピエロの女の子が、また歌いはじめた。
クリスティーナは、ひとりの旅人に恋をしていた。旅人はいつも市場にやってきて、彼女の透明な手を取り、遠い国の話を聞かせてくれた。いつか一緒に旅に出よう。海の向こうにある青い町へ。星が降るという砂漠へ。ふたりで見たことのない世界を見に行こう。
クリスティーナは、その約束を信じていた。
ところがある日、彼女は旅人に尋ねたのだった。
「あなたは、わたしと一緒に行きたいの?」
旅人は微笑んだ。けれど、心の中では別のことを考えていた。
「君はきれいだ。けれど、僕は君を連れていくつもりはないんだ」
クリスティーナは、その心の声を聞いてしまった。
ガラスの娘には、嘘がつけなかった。自分を偽ることも、相手の気持ちを都合よく読み替えることもできなかった。
その瞬間、彼女の胸に細いひびが走った。
ひびは肩へ、腕へ、指先へと広がっていった。透明な身体は、夕陽を受けて美しく輝きながら、静かに砕けていった。
けれど、不思議なことに、破片は地面に落ちなかった。
ひとつひとつが小さな光になって、魔法通りの空へ舞い上がったのだ。
「それで、クリスティーナは死んでしまったの?」
少女が、ピエロの女の子に尋ねた。
女の子は、歌うのをやめて首を振った。
「いいえ。あの子は、まだどこかにいるのよ」
「どこに?」
「誰かが本当の気持ちを話そうとするとき、その声の中に」
そのとき、広場の向こうから、ざわざわと人々の声が近づいてきた。
「あいつらだ!」
少年が叫んだ。森の入口から、黒い外套をまとった商人たちがやってきた。彼らは、ガラスの破片を集めて売りさばこうとしていたのだ。人の涙を宝石に変え、悲しい記憶を珍しい骨董品として売る連中だった。
「行こうよ、あいつらがやってくるまえに」
今度は少女が少年の手を引いた。
ふたりは、ピエロの女の子と一緒に、魔法通りの奥へ駆けていった。古い時計屋の裏を抜け、誰かの初恋が咲いている花壇を越え、やがて小さな橋にたどり着いた。
橋の下には、無数の光が流れていた。
クリスティーナの破片だった。
ひとつひとつの光の中に、誰かの忘れられた時間が宿っていた。言えなかった「ありがとう」。伝えられなかった「さようなら」。もう一度だけ会いたかった人の笑顔。そして、叶わなかった約束。
少年は橋の欄干に手を置いた。
「ねえ。ガラスの娘は、どうして砕けたんだろう」
ピエロの女の子は、しばらく考えてから答えた。
「きっと、透明すぎたのね。でもね、透明だからこそ、あの子の中には、たくさんの光が入っていたのよ」
少女は、川面に手を伸ばした。
すると、ひとつの光が彼女の指先に舞い降りた。
小さなガラスのかけらだった。けれど、それはもう尖ってはいなかった。丸く磨かれた、透き通るような小さな宝石になっていた。
「クリスティーナ……」
少女が名前を呼ぶと、かけらの中から、かすかな声が聞こえた。
「わたし、まだここにいるわ」
その声は、澄んでいた。
「わたしは砕けてしまったけれど、なくなったわけじゃないの。誰かの胸の中で、まだ光っているのよ」
黄昏の魔法通りでは、相変わらず威勢のいい掛け声が飛び交っていた。店々の灯りは、ひとつ、またひとつと輝きを増していった。
少年と少女は、クリスティーナの小さな光を大切に包み、市場の出口へ向かった。
振り返ると、大きなテントの向こうに、夜空が広がっていた。星々が、まるでガラスの破片のようにきらめいている。
忘れられた時間が、ゆっくりとあなたの胸を打つ。
あの日の悲しみも、叶わなかった恋も、言えなかった言葉も、決して無駄にはならない。砕けたものは、砕けたまま終わるのではない。誰かの心に拾われ、いつか別の光になって輝きはじめる。
ここは、魔法の町。
誰もが完璧でなくていい。透明でなくてもいい。嘘をついてしまう日があっても、涙をこぼす夜があってもいい。
それでも、もう一度誰かを信じてみようと思える場所。
満たされるというのは、何もかも手に入れることではないのかもしれない。
失ったものの中に、まだ光が残っていると知ること。
そして、その光を、誰かと分け合うこと。
森の出口で、ピエロの女の子が振り返り、最後の一節を歌った。
その歌声は、風に乗って、遠い町まで流れていった。
やがてテントは消え、市場も、魔法通りも、夢のように姿を隠した。
けれど、少年のポケットには、小さなガラスの光が残っていた。
それは、夕暮れになるたび、ほんの少しだけ温かくなるのだった。
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