高く飛びたい
少年は、はるかかなたにそびえる尖塔を見つめていた。
夕暮れの空を切り裂くように、その先端は雲の彼方へ伸びている。あそこまで行けば、何が見えるのだろう。まだ誰も知らない町だろうか。それとも、いつも心に浮かぶ、かのきみの微笑みが、星のひとつになって待っているのだろうか。
はやる心を宥めるように、誰かがそっと少年の肩を抱いた。
「急がなくてもいいんだよ。高く飛ぶには、遠くを見ることから始めればいい」
誰の声だったのか、少年にはわからなかった。振り向いても、そこには夕風に揺れる草があるばかりだった。
その夜、少年は机に向かった。
古びたキーボードに指を置く。遠いところの話がしたかった。まだ見たことのない国の話。空中を走る列車や、月の裏側にある市場、夜になると灯りをともして歩き出す尖塔の話。現実の暮らしでは、なかなか口にできない、途方もない冒険の話を。
最初に打った文字は、たったひとつの呪文だった。
すると、モニターの片隅に、小さな灯火がともった。
青白い光だった。けれど、よく見ると、その奥には金色の粒が幾千も浮かんでいる。まるで、遠い星々がひとつの小さなともしびに集まってきたようだった。
少年は息をのんだ。
これは、ただの画面ではない。
キーボードの向こうには、まだ地図にも載っていない魔法の町があったのだ。
彼は夢中で文字を打ち始めた。
ひとつの呪文で、石畳の道が生まれた。次の呪文で、道の両側に古い書店と喫茶店が並んだ。屋根の上には風見鶏の代わりに小さな竜が眠り、広場では、忘れられた物語たちが夜ごと舞踏会を開いていた。
そして町のいちばん高い場所に、あの尖塔を建てた。
尖塔には階段がなかった。
そのかわり、誰かを想う気持ちが強くなるほど、空へ向かって少しずつ伸びていくのだった。
少年は立ち上がった。
「さあ、冒険の始まりだ」
モニターの向こうで、町の灯りが一斉にまたたいた。風が吹き、旗が鳴り、見知らぬ騎士たちが馬を走らせる。空には銀色の帆船が浮かび、雲の裂け目から、まだ名もない星座が顔をのぞかせていた。
少年はありとあらゆる呪文を打ち鳴らした。
文字が翼になった。
翼は風を呼び、風は少年の身体を包み込んだ。
気がつくと、彼はモニターを突き抜けていた。
目の前には、さっき自分が創り出した魔法の町が広がっていた。石畳の道は月光を浴び、窓辺には花が咲き、路地の奥からはピアノの音が聞こえてくる。
どこかで、誰かが自分を待っている。
少年は走った。
広場を横切り、橋を渡り、雲の階段を駆け上がる。何度も転びそうになったが、そのたびに風が背中を押してくれた。あのとき肩を抱いてくれた誰かが、今もそばにいるような気がした。
やがて、尖塔の頂にたどり着いた。
そこには、ひとりの少女が立っていた。
少年がずっと心に描いていた、かのきみだった。
少女は振り向き、いつものように微笑んだ。
「遅かったね」
「うん。でも、来られたよ」
「どうして、ここまで来られたの?」
少年は答えようとして、ふと、自分の手を見た。
そこにはキーボードを打ち続けた指があった。何も特別なものではない。魔法の杖でもなければ、英雄の剣でもない。
ただ、遠くを夢見て、文字を打ち続けた手だった。
「きっと、飛びたいと思ったからだよ」
少女はうなずいた。
「だったら、もっと高く飛べるね」
そのとき、尖塔の向こうから朝日が昇り始めた。
町の屋根が金色に輝き、空中の帆船がゆっくりと進路を変えた。遠い山々の向こうには、まだ誰も訪れたことのない新しい町が見えていた。
少年は笑った。
冒険は終わらないのだ。
ひとつの夢がかなえば、その向こうに、また新しい夢が生まれる。遠い場所を想うことは、決して現実から逃げることではない。まだここにない世界を、心の中で先に生きてみることなのだ。
少年は、少女の手を取った。
ふたりの足元から、無数の光の羽根が舞い上がった。
さあ、もっと遠くへ。
もっと高く。
あの尖塔の、さらにその先へ。
少年は飛んだ。
彼が創った魔法の町は、今日もモニターの向こうで、誰かが最初の呪文を打ち込むのを待っている。
そして、小さなともしびは、いつだってそこにある。
飛びたい。あの高みまで。
その願いさえあれば、物語は何度でも始められるのだから。
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