切符売場にて
券売機の横を、君が通り過ぎる。
僕は、お釣りに手間取っている。
百円玉が一枚、機械の奥へ転がったような気がして、僕はしゃがみ込んだ。そのほんの数秒のあいだに、君の姿は人の波に消えてしまった。
――いや。
そもそも、君だったのだろうか。
切符売場の上に掲げられた古い駅名標を見上げる。
ここは、ずいぶん昔から変わらない。
改札口の向こうには、木のベンチが並んだ待合室がある。窓から午後の光が斜めに差し込み、埃が小さな銀河のように舞っている。
汽車を待つ。
ああ、なんてうららかで牧歌的な駅舎の待合だろう。
そんな言葉が、胸の奥からふいにこぼれた。
電車ではなく、汽車。
なぜだか今日は、そう呼びたかった。
ベンチに腰を下ろすと、遠い昔の午後が、まるで誰かに呼び戻されたように蘇ってきた。
陽光が降り注いでいた。
制服の袖を風に揺らしながら、僕はこの駅の高架橋を歩いていた。
そのときだった。
「ノンちゃん」
誰かがそう呼んだ。
振り返ると、階段を上ってくる女の子がいた。
白いブラウス。
紺色のスカート。
そして、少しだけ困ったような笑顔。
僕は知っていた。
いや、知っていると思った。
あの日からずっと、僕の記憶の中にいた女の子だった。
ノンちゃん。
青春といえるような、陽光降り注ぐとある日の午後。
僕たちは、やはりこの駅の高架橋で出会った。
何を話したのかは、もう覚えていない。
ただ、彼女が笑ったとき、向こうの線路を汽車が走っていった。
その汽笛が、空いっぱいに響いた。
そして僕は思った。
――この瞬間は、きっといつまでも残る。
けれど人生というものは、不思議なものだ。
いつまでも残ると思ったものほど、いつの間にか遠ざかっていく。
学校を卒業し、町を離れ、仕事をし、恋をして、別れて、また別の季節を生きた。
ノンちゃんのことも、いつしか思い出さなくなった。
それでも今日。
切符売場で、お釣りの百円玉を探している僕の横を、誰かが通り過ぎた。
そして、階段ですれ違った。
一瞬だけ見えた横顔。
あの笑い方。
あの歩き方。
「ノンちゃん……?」
僕は立ち上がった。
階段を駆け上がる。
高架橋には、午後の光が満ちていた。
人々が行き交っている。
けれど、彼女の姿はどこにもない。
ただ、線路の向こうから汽笛が聞こえた。
昔と同じ音だった。
僕は笑った。
そうか。
君は、まだここにいるのか。
いや。
たぶん、僕の中にいるのだ。
切符売場の時計を見る。
次の汽車が来るまで、まだ少し時間がある。
僕はポケットから切符を取り出した。
行き先は、どこでもよかった。
ただ、この駅からもう一度、旅に出てみたくなった。
あの日の少年が、まだどこかで待っているような気がした。
奇跡のような、魔法のような時間が戻ってきて、
胸がキュンと鳴った。
僕は改札を抜けた。
そして高架橋の階段を上る。
午後の光の中へ。
あの夏の日と、同じように。
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