待ち人きたり
僕をうかがう、優しい息遣いが聞こえる。
誰を待っているんだろう。
窓の向こうは、すっかり暗い。
ずっと向こうに、サーカス小屋がある。
昼間にはなかったはずの赤いテントが、夜になるとぽつんと浮かんでいる。
音楽は聞こえない。
ただ、時折、遠くからエンジンの音がする。
やがて暗闇の中を、一台のオートバイが走ってくる。
小さなヘッドライトが、夜を丸く切り取っている。
その上に、ピエロが乗っている。
僕は、なぜだか知っている。
あのピエロがこちらへやって来るまで、僕は待っていなければならないのだ。
午前二時。
おなかが張るようで寝苦しく、僕は布団を抜け出してトイレに立った。
用を済ませ、眠気の残った頭で寝室へ戻ろうとしたときだった。
天井のあたりから、
かさ……
こそ……
と、音がした。
いつものことだ。
そう思った。
けれど、夜中に聞くその音は、昼間とはまるで違って聞こえる。
僕は少し怖じ気づいた。
意を決して天井を睨みつけ、それから何食わぬ顔で布団へ滑り込んだ。
何も聞こえない。
何も聞こえない。
そう自分に言い聞かせる。
目を閉じる。
すると――
寝室のドアが、
そっと、
開いた。
細い隙間から、廊下の暗闇が入り込んでくる。
僕は息を止めた。
誰もいない。
そう思った。
けれど、暗闇の向こうから、かすかな息遣いが聞こえた。
僕をうかがう、優しい息遣い。
「……待った?」
女の声だった。
懐かしい声。
ずっと昔、どこかで聞いたことのある声。
僕は布団の中で身動きひとつできなかった。
するとドアの向こうに、小さな影が現れた。
白い顔。
赤い鼻。
そして、少し困ったような笑顔。
ピエロだった。
窓の外では、いつの間にかサーカスの音楽が鳴っている。
ピエロは僕を見て、静かに言った。
「遅くなって、ごめんね」
その瞬間、僕は思い出した。
僕はずっと、誰かを待っていた。
けれど、待っていたのは今日の夜ではない。
あの日からずっと。
少年だった僕が、駅のベンチで誰かを待っていた、あの遠い夏からずっと。
ピエロは帽子を取った。
その中から、一枚の古い切符を取り出した。
僕の名前が書いてある。
行き先は――
「待ち人きたり」
だった。
僕は笑った。
怖さは、もうなかった。
窓の外では、オートバイの音が遠ざかっていく。
そして、誰もいないはずの部屋に、
「やっと会えたね」
という声だけが残った。
朝になって目を覚ますと、ドアは閉まっていた。
天井からも、もう何も聞こえない。
ただ、枕元に一枚の古い切符が置かれていた。
僕はそれを手に取った。
すると、遠くから、
かさ……
こそ……
と、小さな音がした。
今度は怖くなかった。
「また、誰かが来るんだな」
僕はそう呟いて、
少しだけ笑った。
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