HOMEおまじない魔法の町愛せよ乙女光の観覧車

キューピットは窓を開けて

その朝、誰もいないはずの部屋で、窓が開いた。

カーテンがふわりと膨らみ、
春の風が一冊の古い本のページをめくっていった。

私は窓を閉めようとして、
ふと手を止めた。

窓辺に、小さな羽根が落ちていた。

白い羽根。

鳥のものにしては、あまりにも小さい。

「まさかね」

そう呟いて笑った。

その日の午後、久しぶりに街へ出た。

駅前の小さなカフェでコーヒーを飲んでいると、
隣の席に誰かが座った。

「ここ、空いてますか?」

顔を上げると、
知らない女性が微笑んでいた。

なぜか、その笑顔を以前から知っているような気がした。

二人は少し話した。

好きな本のこと。
昔住んでいた街のこと。
最近、少しだけ寂しいと思っていること。

気がつけば、夕方になっていた。

別れ際、彼女が言った。

「また、ここに来てもいいですか?」

私は笑って頷いた。

帰宅すると、朝の羽根がまだ窓辺にあった。

私はそれを拾い上げた。

そして、ようやく気づいた。

あの窓を開けたのは、
春の風ではなかったのかもしれない。

恋というものは、
いつも玄関から訪ねてくるとは限らない。

ときどき、窓を開けて、
何気ない顔をして部屋に入ってくる。

そして、気づかないうちに、
心のいちばん静かな場所に座っている。

その夜、私は窓を少しだけ開けて眠った。

もしかしたら明日も、
キューピットがやって来るかもしれないから。

中原中也の時代

Posted on November 22th, 2007 by Guest

古い喫茶店の窓辺に、雨が降っていた。 僕は一冊の詩集を開いていた。中原中也。紙の色は少し黄ばんでいて、活字の向こうに、大正という時代の空気が漂っているようだった。 君は窓の外を見ながら、珈琲をゆっくり飲んでいた。 「この人は、どんな街を歩いていたのかしら」 僕らは想像した。石畳の道。ガス灯の下を行き交う人々。帽子を深くかぶった青年。どこかの窓から聞こえるピアノ。銀座の街角に、まだ名前のない憧れが漂っていた時代。 中也は、そんな街の片隅で、誰にも渡せない言葉を抱えて歩いていたのだろうか。 詩人の孤独は、遠い星の光に似ている。いま見えているその光が、どれほど昔に放たれたものなのか、僕らにはわからない。けれど、確かにそこにある。 君は詩集のページをめくった。 「なんだか、昔の人なのに、今の私たちのことを知っているみたいね」 僕はうなずいた。 雨がやんだ。窓の向こうに、見知らぬ時代の街が浮かんでいた。僕らはそこへ行くことはできない。それでも、詩の一行をたどれば、ほんの少しだけ、その街の住人になれる気がした。 喫茶店を出ると、夕暮れの空に星がひとつ。 中也の時代も、きっとこんなふうに、誰かの心のなかで静かに暮れていったのだ。

© Mahou.Tk 2010