まねき猫とジャーポット
リビングに入ると、彼は不思議そうに尋ねた。
「クローゼットからは行けないのですか? 近道だと思うのですが」
私はジャーポットの蓋を開け、湯気の立つお湯をカップに注いだ。窓辺では、白い招き猫が片手を上げている。誰を招いているのか、もう何年も前からの謎だった。
「行けるわよ。ただし、帰ってこられるとは限らないけれど」
彼は目を輝かせた。
どうやら、そういう話が大好きらしい。
クローゼットの扉を開けると、奥には見覚えのない石畳の道が続いていた。夕暮れの街角。赤い風車。駄菓子屋のネオン。遠くから、誰かの口笛まで聞こえてくる。
「ほら、やっぱり近道だ!」
彼が一歩踏み出したとき、招き猫が小さく鳴いた。
すると、クローゼットの向こうにいたはずの彼が、なぜか私の隣でジャーポットのお湯を注いでいた。
「あれ? 僕は向こうへ行ったんじゃなかったかな」
「そうね。でも、あなたの帰りを待っている人が、こちらにもいたんでしょう」
私はカップをひとつ、彼の前に置いた。
彼はしばらく考えていたが、やがて笑った。
「なるほど。近道というのは、距離の問題じゃないんですね」
招き猫は、相変わらず片手を上げていた。
今度は、誰かを送り出すために。
ジャーポットの中では、まだたっぷりとお湯が沸いていた。クローゼットの扉は、いつの間にか閉じていたけれど、あの石畳の道は、きっと明日もそこにある。
そして明日も、誰かが尋ねるのだろう。
「クローゼットからは行けないのですか?」
そのたびに私は、お湯を沸かすことにしている。
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