愛してる
ガラス細工の筒の中で、僕はもがいていたのでした。
透明な壁の向こうには、誰かの涙があふれている。水位は少しずつ上がり、やがて筒の口まで届くだろう。外へ出れば溺れてしまう。かといって、このまま閉じ込められていれば、息が続かない。
まったく、恋というものは厄介な細工物だ。
僕はいつだって、誰かを愛していた。
駅の改札で振り返った人。喫茶店で窓の外を眺めていた人。古本屋の棚の向こうで、同じ詩集に手を伸ばした人。名前も知らないその人たちに、僕は一瞬で恋をした。
もしかしたら、誰でもいいのかもしれない。
そんな考えが頭をかすめるたび、僕は自分を恥じた。けれど、いざ好きになってしまえば、僕は誠心誠意、その人を愛した。相手のためなら何だってできると思ったし、実際、いくつもの大切なものを手放してきた。
仕事も、約束も、時には自分の将来さえも。
いま思えば、ずいぶんとマニアックな純情だったと思う。
ある日、僕はひとりの女性に出会った。
彼女は古いガラス工房で働いていた。細い指先で、まだ熱を帯びたガラスを回しながら、ため息まじりに言った。
「あなた、愛するって、相手のために自分をなくすことだと思ってるでしょう?」
僕は答えられなかった。
「それじゃ、あなたがいなくなったあと、愛された人は誰を愛せばいいの?」
彼女はガラスの筒をひとつ、作業台の上に置いた。
それは僕が夢の中で閉じ込められていた、あの筒によく似ていた。
「人はね、悲しいとき、涙の中に誰かを閉じ込めてしまうの。忘れたくないから。でも、その人が出ていこうとしたら、もっと泣いてしまう」
僕は彼女を愛した。
今度こそ本物だと思った。彼女のためなら、どんな犠牲もいとわない。彼女が望むなら、僕は僕であることさえやめてしまおう。
ところが彼女は、僕の手をそっと握って言った。
「私を愛してくれるのなら、あなた自身も大切にしてね」
その瞬間、僕の胸の奥で、何かが小さく砕けた。
長いあいだ、僕はガラスの筒を自分の心だと思っていた。誰かを愛するたび、そこに相手を招き入れ、出ていかないように扉を閉めていたのだ。相手のために犠牲になることが、愛の証明だと信じていた。
けれど、筒の中にいたのは、いつだって僕自身だったのかもしれない。
彼女は工房の窓を開けた。
夕方の風が吹き込み、ガラスの破片が机の上でかすかに鳴った。
「外へ出ても、溺れないわよ」
彼女は笑った。
僕は初めて、自分の足で一歩を踏み出した。
世界は相変わらず、誰かの涙で満ちていた。愛されなかった人の涙。別れてしまった人の涙。もう会えない人を思い出す涙。
それでも、僕は歩いていける気がした。
彼女の手を握りしめる。彼女もまた、僕の手を握り返してくれた。
「愛してる」
僕は言った。
それは、君のためなら僕を犠牲にするという意味ではなかった。
君を愛している僕も、君と同じように、この世界で生きていたい。
君の悲しみをすべて引き受けることはできないけれど、君が泣くとき、隣にいることはできる。
そして、いつか君が僕の手を離したとしても、君を愛した時間まで、なかったことにはしない。
「愛してる」
もう一度、僕は言った。
ガラスの筒は、夕陽を受けて、ほんのりと赤く染まっていた。
その中に、誰も閉じ込められてはいなかった。
ただ、ふたつの影が寄り添い、長く伸びていた。
僕は思った。
なんとマニアックで、なんと純な話だろう。
愛するということは、誰かのために自分をなくすことではなく、誰かと出会ったことで、自分をもう一度見つけることなのかもしれない。
そして僕は、彼女の手を握ったまま、涙の海ではない、夕暮れの街へと歩き出したのでした。