ヘンゼルとグレーテルのようでもあり、いいおばあさんの話だけどね。
いやブラッドベリのたんぽぽのお酒のようなはなしかな
ワッフルを作る
おばあちゃんの台所には、秘密があった。
秘密といっても、床下に隠し扉があるわけでも、壁の向こうから小人たちの歌声が聞こえてくるわけでもない。ただ、いつも何かが焼けていて、何かが煮えていて、何かが新しく生まれようとしていた。
その日、おばあちゃんは書き込みだらけのノートを片手に、オーブンと格闘していた。
「おかしいねえ。昨日はこれでうまくいったんだけど」
小麦粉の分量の横には、赤鉛筆で「牛乳を少々減らすこと」。その下には青いペンで「いや、むしろ増やすべき」。さらに余白には、几帳面な文字で「焼き時間、あと二分」と記されている。
どうやら、世界中のワッフル職人が束になってかかっても、このノートには勝てそうになかった。
おばあちゃんは新し物好きで、研究熱心だった。ラジオがやって来たときは、蓋を開けて中を調べようとした。電気ミキサーを買ったときは、近所の奥さんたちを集めて実験をした。電子レンジが登場すると、今度は卵がどうして爆発するのかを確かめようとして、家族全員から止められた。
けれど、お菓子作りだけは誰も止めなかった。
失敗したって、最後には食べられるからね。
「さあ、あんたも手伝いなさい」
おばあちゃんは僕に、妙な形の鉄板を渡した。
「これは何?」
「ワッフルメーカーさ。ベルギーから来たんだよ」
「ベルギーって、ずいぶん遠いんじゃない?」
「だから面白いんじゃないか」
おばあちゃんは、そう言って笑った。
その笑い方が、僕には少し不思議だった。森の奥で道に迷ったヘンゼルとグレーテルが、砂糖菓子の家を見つけたとき、きっとこんな気持ちになったのではないか。甘い匂いに誘われて、知らない世界の扉を開けてしまったような気持ち。
でも、おばあちゃんは魔女じゃない。
少なくとも、子供を食べようとはしなかった。
むしろ、僕たちが食べるものを、せっせと作っていた。
ただし、彼女の台所には奇妙なことが起こる。
生地を流し込んだ鉄板の蓋を閉じると、どこからともなく森の匂いがしてきた。雨に濡れた土、熟した木の実、夏草、それから、遠い昔に嗅いだことのあるような、誰かの家の匂い。
「おばあちゃん、これ、何の匂い?」
「さあねえ。バターじゃないかい?」
おばあちゃんは平気な顔をしていた。
やがて、焼き上がったワッフルが皿の上に並んだ。
蜂蜜をかけたもの。林檎を煮詰めたもの。粉砂糖を雪のように降らせたもの。どれも少しずつ形が違っていて、最後の一枚などは、どういうわけか小さな森の地図にそっくりだった。
「こいつは傑作だね」
おばあちゃんは、その一枚を窓辺に置いた。
「誰かが食べに来るかもしれないからね」
誰かって誰だろう。
僕は訊こうとしたけれど、そのとき、庭の向こうで風が吹いた。
木々がざわめき、黄色い花がいっせいに揺れた。たんぽぽだった。綿毛になったものもあれば、まだ春の光を抱えているものもあった。風はそれらを連れて、庭から道へ、道から町へと吹き抜けていった。
ふと、僕は思った。
ああ、これは魔法なのだ。
ブラッドベリの『たんぽぽのお酒』に出てくる夏のように、何気ない日々の中に、あとから思い出すと宝物になっている瞬間がある。あのときの光、あのときの匂い、あのときに食べたもの。大人になってからでは、もう同じ味では味わえないもの。
おばあちゃんは、そんなものを作ろうとしていたのかもしれない。
ワッフルの焼き加減を調べていたのではなく、明日になれば消えてしまう今日の幸せを、どうにかして残しておこうとしていたのだ。
「おばあちゃん、これ、ノートに書いておこうよ」
「何を?」
「今日のワッフルのこと」
おばあちゃんは、少し考えてから、ノートを僕に渡した。
僕は新しいページを開き、こう書いた。
――ワッフルの作り方。
小麦粉を混ぜる。卵を割る。牛乳を入れる。バターを溶かす。
それから、誰かと一緒に作ること。
窓を開けて、風を入れること。
失敗しても笑うこと。
そして、焼き上がるまでのあいだ、遠い森のことや、まだ見たことのない国のことを話すこと。
「それじゃあ、レシピになっていないねえ」
おばあちゃんは呆れたように言った。
「でも、これが一番大事だよ」
僕がそう答えると、おばあちゃんは、いつものように笑った。
その笑顔を、僕はノートの余白に描いておいた。
何年も経った今でも、ときどき僕はワッフルを焼く。
あのノートは、どこかへ行ってしまった。おばあちゃんも、もういない。
それでも、バターが溶ける匂いが台所に広がり、焼き上がった生地に蜂蜜を垂らすと、ほんの一瞬、あの家の窓が開く。
黄色い花が揺れている。
庭の向こうには、まだ知らない森がある。
そして、どこかでおばあちゃんが、古いノートを片手に、今日も新しいレシピを研究している。
「さて、次は何を作ろうかねえ」
そう言って。
僕はワッフルを一枚、皿に載せる。
誰かが食べに来るかもしれないから。
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