貧すれば箒が舞飛ぶ
その町では、冬になると箒が空を飛ぶのだと云われていた。
もちろん、誰も信じてはいなかった。箒は掃除をするためのものであり、空を飛ぶのは童話の魔女か、さもなければ夢の中の出来事に決まっていたからだ。
けれども、僕らの暮らす町には、ひとつだけ不思議なことがあった。
貧しさが極まると、人々は箒を手放さなくなるのだった。
食べるものがなくなり、暖炉にくべる薪も尽き、明日のことを考える気力さえ失われてしまう。そんな夜、誰かが古い箒を抱いて空を見上げる。すると、箒の穂先から銀色の粉がこぼれ、床に散らばった絶望を、ほんの少しだけ照らすのだった。
「見えるか、あの空の向こうに入口があって、桃源郷へと続くんだとさ」
隣に住む老人が云った。
僕らは崩れかけたアパートの屋上にいた。町の灯りはまばらで、遠くの工場から、夜の底を引っかくような音が聞こえていた。
「いさかいは無く、誰もが穏やかなところ、そう云っていた」
老人は、いつか読んだ絵本の続きを思い出すように、目を細めた。
「そこへ行けば、もう腹を空かせることもないのかな」
僕が訊くと、老人は答えなかった。
ただ、手にしていた箒を、そっと夜空へ差し出した。
その瞬間だった。
箒が、ふわりと浮かび上がったのである。
僕は思わず息を呑んだ。箒は老人の手を離れ、屋上の柵を越え、星のない空へと舞い上がっていった。続いて、町のあちこちから箒が飛び立った。古い箒、新しい箒、柄の折れた箒。まるで人々が胸の奥にしまい込んでいた願いが、形を得て飛んでいくかのようだった。
空腹と絶望の中から立ち上がる映像。
それは、ひどく美しかった。
貧しさに押しつぶされ、言葉さえ失っていた人々が、いっせいに顔を上げた。母親は子どもの手を握り、老人は隣人に肩を貸し、昨日までいさかいを続けていた男たちも、黙って空を見つめていた。
箒の群れは、夜空の一点に集まっていった。
そこには、確かに入口があった。
雲の切れ目でも、星の瞬きでもない。薄い金色の扉が、空の向こう側に開いていたのだ。
扉の向こうから、暖かな光がこぼれていた。
花の咲く野原が見えた。澄んだ川が流れていた。テーブルには焼きたてのパンが並び、誰もが笑いながら、隣の人にそのパンを分けていた。
僕は泣きそうになった。
これが昇華というものなのだろうか。
苦しみも、飢えも、怒りも、すべてが純粋な光に変わっていく。僕らの末期は美しく、もしかすると人間という生き物は、最後の最後にこそ、こんなにも清らかな夢を見ることができるのかもしれなかった。
けれども。
「待ってくれ!」
僕は叫んだ。
「みんな、そっちへ行ってしまうのか!」
箒の群れは、なおも空へ昇っていく。老人の姿も、その光の中に溶けかけていた。
「おじいさん、桃源郷は本当にあそこにあるのかい?」
老人は振り返った。
その顔には、穏やかな微笑みがあった。
「さあな。だが、あそこに行かなければ、幸せになれないということもないだろう」
「じゃあ、どうして箒は飛ぶんだ?」
「人間はな、何もかも失くしたと思ったとき、自分にまだ何が残っているかを、初めて考えるものなのさ」
老人はそう云って、空を見上げた。
「箒が一本残っていた。それだけのことだよ」
僕は足元を見た。
屋上の隅に、掃除用の箒が一本転がっていた。柄はささくれ、穂先は擦り切れていた。僕はそれを拾い上げた。
すると、箒はほんの少しだけ浮いた。
けれども、僕は手を離さなかった。
「僕は、まだ行かないよ」
僕は云った。
「明日、パンを焼こうと思うんだ。小麦粉はないけれど、隣のおばさんが何か持っているかもしれない。みんなで探せば、何とかなるかもしれない」
老人は、ゆっくりとうなずいた。
そのとき、空の扉が少しずつ閉じ始めた。
飛んでいった箒たちは、金色の光の中に消えていったものもあれば、くるりと向きを変えて、町へ戻ってくるものもあった。
戻ってきた箒は、ひとつ、またひとつと、家々の窓辺に降り立った。
翌朝、町には不思議なことが起きていた。
誰かがパンを焼いていた。誰かがスープを煮ていた。誰かが壊れた窓を直し、誰かが道を掃いていた。昨日まで口もきかなかった隣人同士が、ひとつの鍋を囲んでいた。
桃源郷は、空の向こうにあるのかもしれない。
けれども、その入口は、ときどき僕らの足元にも開くのだった。
貧すれば箒が舞飛ぶ。
それは、貧しさが人を魔法使いにするという意味ではなかった。
貧しさに追い詰められた人間が、とうとう空を飛ぶ夢を見るということ。そして、その夢から帰ってきたとき、まだ自分の手に残されているものを見つけるということだった。
僕は箒を手に、朝の路地へ出た。
誰も死んだりはしないといい。
誰もが、あの金色の扉を夢見ながら、こちらの世界でもう一度、温かなパンを食べられるといい。
空には、昨夜の光の名残が、淡い銀粉となって漂っていた。
僕は箒でそれを掃き集めた。
それは、まるで小さな星のかけらのようだった。