焼けたトタン屋根の上で
「どうしたの? そんなに睨みつけなくったっていいじゃないか。悪気があったわけじゃないんだからさ。あの上で逆立ちでもすれば、許してくれる?」
彼女は答えず、僕の足元に転がっている空き缶を蹴った。缶は乾いた音を立てて、路地の奥へ転がっていった。
夏の午後。焼けたトタン屋根の上では、野良猫が一匹、長々と身体を伸ばしている。まるで世界中の不愉快な出来事など、すべて自分の肉球の下にあるとでもいうように。
「猫じゃないんだから、屋根の上で逆立ちなんてできるわけないでしょう」
彼女がようやく口を開いた。
「そうかな。人間だって、たまには猫に見習うべきだと思うけどね。暑けりゃ寝る。腹が減れば食べる。気に入らなければ、さっさとどこかへ行く」
「あなたは、いつだってそうやって逃げるのね」
ああ、そういうことか。
僕はようやく、彼女が何に怒っているのかを思い出した。昨日の放課後、僕が不用意に口にしたひと言。みんなの前で、彼女が大切にしていた夢を、冗談の種にしてしまったのだ。
「ごめん」
今度は、ふざけずに言った。
彼女は屋根の上の猫を見上げた。猫は片目だけを開け、僕たちを眺めていた。
「ねえ、覚えてる? 高校のとき、テネシー・ウィリアムズの戯曲をやろうって話が出たでしょう」
「『焼けたトタン屋根の上の猫』か」
そう。あの頃、僕たちはずいぶん生意気だった。難しい戯曲を選んでは、人生の秘密を解き明かしたような顔をしていた。教室の机を並べ替え、文化祭で上演するのだと騒いだ。けれど、誰がどの役を演じるかで揉め、脚本の意味をめぐって議論し、とうとう稽古にすらたどり着かなかった。
それでも彼女だけは、最後まで本気だった。
「私、あのとき思ったの。人間って、ほんとうのことを言えないまま、ずっと誰かを傷つけたり、自分を傷つけたりして生きていくのかなって」
僕は返事ができなかった。
トタン屋根の猫が、ひょいと立ち上がった。熱さなど忘れたように、細い足取りで屋根の向こうへ歩いていく。
「だからさ」と僕は言った。「今日、ここで決着をつけよう。僕が屋根に上って逆立ちする。君はそれを見て笑う。そうしたら、仲直りだ」
「馬鹿ね」
彼女は笑わなかったけれど、怒った顔でもなかった。
「猫じゃないんだから」
「そうだね。猫じゃない」
僕たちは、しばらく黙って屋根を見上げていた。
結局、僕は逆立ちをしなかったし、彼女も僕を許したとは言わなかった。
ただ、帰り道、彼女が僕の袖をつまんだ。
「ねえ。あの戯曲、いつか二人で読んでみない?」
「いいね。今度こそ、最後まで」
焼けたトタン屋根の向こうで、猫の尻尾が一瞬だけ見え、それから消えた。
僕たちは、猫のように自由にはなれない。
けれど、ほんとうのことを言うために、もう一度誰かの隣に立つことくらいはできるのだ。
それが、あの高校時代の芝居が、何年もかかって僕たちに教えてくれた、ささやかな結末だった。